ゆるやかな話

体の事情で生活の速度がかなりゆるやかになっている。まず歩くのが遅い。いままで歩いて30分で行けたところに45分くらいかかってしまう。あと支度が遅い。チャキチャキ動くことができないため早めに起きないと遅刻する。晩ごはんを作るのだってそうだ。そんなことがいろいろ積み重なって、気づいたころにはねむたい時間がやってきてしまう。ああ、今日も最低限のことだけやって終わったなあ。そんな毎日である。

しかしこれに少しずつ慣れると、今まで無駄にあたふたと急ぎ過ぎていたのではないかと感じる。以前はあれをやってこれをやってとせかせか急いでこなして、さて空いた時間になにをしようかと考えながら行動していた。それがいまはただ体の都合に合わせてゆるやかに生活しているだけ。従来のように時間に余裕があることがほとんどない。だけれども、必要なことに時間をたっぷりかけて生活することに、特になんの不便も不幸も感じなかった。きっとあたふたと行動していたとき、空いた時間に結局いらんことばかりしていたのかもしれない。

いらんこと、とどのつまり、誰も見ていないうぶ毛の処理に時間をかけたりしなくてもよいのだ。きっと人生というものは。ちょっとミニマリストっぽいことを書いたかな。でもムダ毛は無駄なものなのか。ミニマリストも毛を剃りますか?

パンツ

男のひとと付き合うなら下着はくらいは上下揃えておいたほうがいいよなあと思って買った結構前から履いているパンツに穴が空いた。パンツだけ。セットのブラジャーは無事。ちょっといいパンツだった。上下で9000円くらいだっただろうか。下着に興味がなかった身としては値が張る金額だったのですこし名残惜しい。だが名残惜しんでいる場合ではない。穴の空いたパンツはわたしにひとつの大きな問題を突きつけた。「上下揃った下着のパンツに穴が空いた場合、ブラジャーのほうも一緒に捨てなくてはならないのか」と。これはとても難しい問題だった。よく考えてみよう。両方捨てる以外に、穴の空いたパンツを引き続き履く、という選択肢もある。共倒れなんていやだ。添い遂げてみせる。そんなパンツの声が聞こえてくるような気がする。一方でブラジャーはどうだろう。穴こそ空いていないもののスレや型崩れがひどく、かつてのきらびやかさの面影もない。でも、どこかたくましい。頼りがいがあった。人の年齢でいったら、55歳くらいだろうか。まだまだやれる。ブラジャーとてリタイヤするにはまだ早いと感じているはずだ。だったらパンツだって、まだまだやれる。これしきの傷。そう、これしきの傷なのだ。縫えばいい。縫ってしまえば、すべてが解決するではないか。縦の糸はわたし〜みたいな歌詞の歌があったが、そんなのきれいごとだ。鞭を打つように針を通し、糸を縫いつける。そこに、尊厳死はない。そんなことを考えているうちに下着を捨てるタイミングを見失うんですがみんなが下着を捨てるタイミングを切実に知りたい。

羽毛ぶとんと儀式

去年の暮れに羽毛ぶとんを買ったのだが生活が劇的に変わってしまった。というのも毎年、12月ごろになると深夜尿意を感じてトイレに起きるようになるという冬の習慣があったのだが、それがなくなったのだ。まあふとんが綿混から羽毛に変わったのだから、あたたかくなって尿意を感じなくなるのは当然のことだ。しかし毎晩毎晩、儀式的に放出されていた尿が突然出なくなってしまったさみしさが少しだけある。わたしにとって深夜の尿意は季語だった。身近に感じる冬の訪れの最たるものだった。あの儀式を経なければ、雪は降らない。椿は咲かない。サンタも来ない。そう思っていた。けれどまったくもってそんなことはなかったし尿意によって妨げられていた睡眠をさっさと取り戻したいので今日はもう寝ようと思います。

昨日の稀勢の里白鵬戦は泣きました。稀勢の里ォ!