「枝臭い人」という評価

子供の友達が「こっぱんつくんのママって枝臭い」と言っていたらしい。

枝臭い。つまり、体から枝のにおいがするということだ。

まるで初めての評価である。というかそんなこと言われてる人ほかににいるのだろうか。本人から直接面と向かって枝臭いと言われたわけではなく、又聞きなので、もしかしたらなにかしらの悪意があって枝臭いと言っているのか、もしそうなのだとしたら本人に聞いてみなくてはならないが、そうはいっても実際にマジで私自身が枝臭い可能性もあり、そのあたりの真意を私は問い詰められずにいる。

仮にマジで枝臭かったとしたら、一体なんの枝なのかが大変重要である。私の身の回りの枝臭を推測するにクスノキ臭であればいわゆる樟脳なのでおおよそタンスの防虫剤のにおいであろうし、ヒノキ臭なのであれば確実に風呂つまりバスロマンのにおいであると断言できるが、なんの枝のにおいなのかを問えない限り私は枝臭い以上でも枝臭い以下でもないただの枝臭い人間である。

新たに得た「枝臭い人」という評価を胸に、これからの人生も楽しんでいこうと思います。

これはトイレとゴミ箱の前で撮った写真です。

これがヤマボウシの実なのね

昨年5月に家の通路に植えたヤマボウシがついに今秋、実をつけた。家庭菜園でもなんでもないただの植栽が実をつけるの、なんでこんなにうれしいのかしら。ほとんど木の世話なんてしてないので、なんだか得した気分。棚からヤマボウシの実だわよ。

表面のぶつぶつがなんか毛穴っぽいけど、かわいらしい赤色

食べられるというのは知っていたのだが食べたことはなかった。初挑戦のヤマボウシの実である。

さっそく食べてみると毛穴っぽい皮は結構固くて、食べるにはちょっと顔が歪んじゃう感じではあったが、剥けば問題ない。

そして肝心の中の黄色い果実。質感はジュルッっとした感じながらも意外と舌触りはザラザラ、でもそれを感じる前にドカンと甘みがくる。えー。すごいあまーい。マンゴーくらいあまい。まじで。えー。なんでー。鳥はこれ、メインディッシュとして食うの?デザートじゃないの?ぜいたくだな。ちなみにこれを書きながら凍らせてもうまいらしいということを知った。書き終えたら冷凍庫に入れよう。

ちなみにこどもは思っていたのと違ったらしく、一口食べてもういいやとなってた。どうやらさくらんぼを想像していたらしい。果物との違い、おもしろいよねー。そのうちそういう何故にも気づくのだろうか。まあ、先週驚いたヨウシュヤマゴボウの件もありやや果実に対して警戒しているのかもしれないけど。日々小さな実りの秋をそばに感じる。

食べるとダメらしい

魅力的な見た目のこれ

ヨウシュヤマゴボウと言って、食べると食中毒を起こすらしい。

自然然毒のリスクプロファイル – 厚生労働省

なぜ突然そんなことを書いたのかと言うと先日遊びに行った愛華ちゃん宅のお庭においてこどもの手に届くようなカジュアルなところに生えており、なんの気なしに「ぶどうみたいでおいしいそう」「植物の実って食べたくなるよね」「かじってみたら」なんて言っていたので(大人が)実際どうなのとおもってその場で調べてみたら結構おっかない植物ということが判明し、おっかねーとなった。おっかねー。「毒だったら嫌だ」といって食べなかった我が子、えらいぞ。勘がいい。(親バカ)

こどものころ、そこら辺に生えているたいていの実は食べていた記憶があったので、そんな実もあるのかと大変驚いたのであった。茎も紫色で結構きれいである。何事も見た目で判断してはならないのでありまするね。

マルタ・アルゲリッチは北千住で降りる

朝の通勤で乗る電車の車両を変えたら、とある女性と乗り合わせることが多くなった。

白髪混じりのグレイヘアで、髪質は毛が細くやや縮れ気味、横にモハっと広がっており、着ている服はだいたい黒色。それに大柄のロングスカートを履いている。なんというかピアニストのマルタ・アルゲリッチによく似ている。

マルタ・アルゲリッチ – KAJIMOTO

似ていると言っても満員電車で後ろ姿しか見ていないので、顔が似ているかは不明なのだが。

アルゲリッチは今朝も北千住で降りますね

ノイズキャンセリングヘッドホンを手に入れてから移動中はもっぱらクラシックになっていた私にとって、常磐線でマルタ・アルゲリッチの後ろ姿を眺めながらマルタ・アルゲリッチのピアノを聴くというのはなんとも新鮮な味わいがある。同じ車両に何人か同じ味わいを感じている人いるだろうか。

11月の公演行こうかなあ。本人を実物で見るべきである。

細長い日

上司が「いちゃガリガリ」という沖縄の駄菓子を買ってきて食べていたのだが固いが故に咀嚼音がすごく、その後ろで課長がしゃべっている声が何も聞こえなくてあのその轟音の正体は一体なんですかという具合だった。よくよく聞いてみたらとても固い駄菓子で有名らしく(仕事中なぜそんなものを食べているのかという疑問があるが)わしたショップなどでも売られているらしい。

わしたショップオンライン

いちゃガリガリ

その固さの秘密などはここで語るよりきちんと取材しているサイトがあるのでそちらをみていただきたい。個人的には特にうまい感じでもないのだが、脳に振動が走るくらい固くそれがなんというか、けっこうくせになる。

「あ!固い日のう…」となど言いたくなる衝動を抑えよう。

固くて疲れたのでカップラーメンに入れてみたが、いくら待っても固い。1時間くらい浸せば食えるかもしれないが、麺は伸びる。

すっかり気に入ったので自分用に買おうかなとわしたショップオンラインを見ながら帰った。商品399円に対して送料880円か…せめて3袋は買わないとだがそんなに食えるのかこんなに固いのに…とかなんとか思いながら子供を保育園に迎えに行くと唐突に「さっきイモムシを捕まえたから見て」と言う。

昆虫に詳しい子いわく「スズメガ」の幼虫だろうとのこと。へー。

なんだか今日は細長い日でありますね。イモムシはやわらかいですが食べません。

私は丁寧に暮らしている人より丁寧に対しての志は高い

今日の午前中のことだ。慌ただしい急ぎの仕事をひと段落させ、トイレへ行き用を足しさぁて残りの仕事もしっかりやるぞ〜と思いながら手を洗いつつ鏡に目をやったところ、さっきまで噛んでいたクロレッツのガムの塊が服の左ポケットのあたりについていた。

…なぜ。トイレに来る前にティッシュにくるんで捨てたと思っていた、あのガムがなぜここに。なぜ前衛的なモチーフのブローチみたいな顔をして今日の私の胸元を彩っているの。

どことなく私のでかい奥歯の形跡が感じられるさっき噛んでいたガムのブローチは、一瞬良さげにも見えたが、それは自分の非を認めたくない私以外の人からしてみたら明らかに服についたガムでしかない。ああ。もうダメ。人として本当にダメです。包み紙があったら私が包まれたい。

私は大雑把で雑で適当なところが大いにあり社会人生活において支障をきたすくらいなのだけれどとはいえまさか服にさっきまで噛んでいたガムが付いているレベルで雑なのだとは思いもせず、事後結構落ち込んでいる。これはむしろ雑を通り越して単に服にガムが付いている人です。ひどい。世界中の雑な自分に苦しみもがく人々に謝罪して回りたいよ。ごめん、私、がんばって丁寧に生きようと意識しているけど、それでも服にさっき噛んでたガムがついてしまうんよ。ねえ神様なんでなの?

人よりもっと丁寧に生きなくてはならないと常々思う。だから私は、生まれつき丁寧な行いが得意で丁寧な暮らすことが容易な人より、丁寧に対しての志が高いと思う。服にガムはつくけど。ポジティブに生きたい。

丁寧への志が高いので春に向けてチューリップの球根を植える予定がある。人の数倍、丁寧にやらないと咲かないと思っている。まじめに。

キーボードをもらった

夫から使ってないキーボードをもらったので1年半ぶりに投稿をしている。Thinkpad。便利だねー。Twitterもほとんど見なくなったし、これからはこちらで感情をモミモミしようかしらなんて思っているところよ。オホホ。

ところどころパーツが欠けておりそれはそれで魅力的なのよ。オホホ。

ジンギスカンが好きな人と結婚してよかった

ほんとうにそう思うんですよ。だって、けっこう私の周りではラム肉が苦手な人が多くて、ラム肉が苦手って言われると、まあたしかに臭いし、しかたないねーと思うんだけど、でも、食べられないのはもったいないなあと思うわけ。だってだって、あの臭さがうまいじゃないのよ。

なんて、通ぶったことを言っているけれど、わたしがラム肉が好きになったのは、まちがいなく夫のおかげで、夫がジンギスカンが好きだからでございます。

今日の昼食。屋上にて。ウインナーは子供用。

結婚するまで、ジンギスカンに縁がない人生を送ってきた。1度だけ食べたことはあったけれど、それがあまりいい思い出ではなくて。というのも、中学校の修学旅行のお昼にりんどう湖ファミリー牧場でジンギスカンが出されたのだが、ジンギスカンないしラム肉なんて存在すら知らなかった私は初めて食べたもんだから「なんかふつうの肉と違うな。臭い気がするな。なんだろうな」と考えごとをしながら食べていたら、横にいた友達に「ねえなんで肉ばかり食べるの」と、あきらかに意地の悪い顔で言われて、男子も見てたし、まあ多感な時期なので、とても恥ずかしくなって、そこから箸が止まり、それ以来、食べてなかったのである。なんて気の毒な私。思春期の自尊心が「肉ばかりをたくさん食べる」というスティグマに晒されることの残酷さよ。

しかし、思春期から止まっていた私のジンギスカン時計は、北海道出身の夫のおかげで動き出した。彼は大学のときにジンギスカン屋でバイトをしていて、成長期の血や肉をジンギスカンで形成したようなジンギスカン人間なので、彼と結婚することによって、私の日常にも否応なくジンギスカンがやってきた。恥ずかしくて食べることをやめたあのジンギスカンは、あのとき感じたとおり臭く、でも目の前にはあのときと違って「たくさん食べなね」と言う人がいて、言われるままにたくさん食べてみると、その臭さがだんだん癖になってきて、いやもしかしてこれはかなり好きな食べ物なのではないか、と気がついたのである。ジンギスカンが苦手な人と結婚していたら、このなんともいえないやみつき感には気がつけなかっただろう。

だから、ジンギスカンが好きな人と結婚してほんとうによかった。そう思います。

この焼け野原のような状態が一番好き。こんな状態になっても夫婦でいることを誓います。今日は、7回目の結婚記念日だったのでした。

「ガールズトーク書き初め」を久々に開催したらすごく楽しかったというだけの話

ガールズトーク書き初め。それは、女友達同士で集まって、15分おきにアラームを鳴らし、アラームが鳴ったタイミングで、発言していた人が発言したことを毛筆で書く、問題提起型のイベントである。嘘。ただの遊びです。

<書初めのシーズンを過ぎているので全紙がスーパーに売っていなかった。半紙は文字数が多いと大変である。>

この遊びの企画が始まったのは6年前。かつては、書き初めなので年始行事として実施していたのだが、わたしが出産し、まだこどもが小さいなかで年始になかなか時間を作れなくなってしまったこともあり、前回の開催から5年とだいぶ間があいてしまった。だがついこのあいだ、トーク時にマスクを装着しながらではあったが、メンバーも変わらず、ひさしぶりに開催することができたのである。やあ。楽しかったね。

<昨年結婚したマクモ氏の新居にて。新居荒らしである。(写真を撮ってくれたのはマクモ氏の夫。ありがとうございます)>

先の大統領ドナルド・トランプが、自らが発したあらゆる暴言や猥談を「Locker-room talk(ロッカールームトーク)」と言って済ませていたのは記憶に新しい。(まあ済んでいないのですが)まず最初に断っておきたいのは、我々のおしゃべりは、彼または彼らの言うロッカールームトークのような、そんな下品なものではない。もちろんおよそ品行方正と言えるものではないのだが、そこに一切の虚構はなく、極めて現実的で、弱者を貶めるようなこともない。むしろ、内容によっては、自分たちが傷つく。そんなトークだ。まるで翼の折れたエンジェルたちのトーク。みんな跳べないのである。

そしてなにより、このトークは書道という形で、強い表現力を持つ。自らが発言したことを、自ら筆をとって書く、ということの重み。ある種宗教思想的だし、経典を書き写す写経なんかに近い部分がある気がするが、精神統一とはほど遠く、むしろ邪気や邪念的なものを呼び寄せる行為にすら思える。某オンラインサロンでもメンバーを集めてやればいいんじゃないかな。いや、ぜひやってほしい。

<真美ちゃんの「これも丁寧な暮らしに入るんだ」は、名言であった>

ひさしぶりのガールズトーク書き初めは、5年前に開催されたそれより、それぞれが持ち寄る話題が少し変わってきた印象があった。その点では、書道という方法で会話を可視化し、毎年残すという行為はとても指標的であるなと思う。そしてなにより歳を重ねても楽しめる遊びであったことには、とても驚かされた。とにかくただただ楽しい。だんだん筆をとるのがめんどくさくなるのも含めて。

5年前と変わらず集まるわたしたちは、少しずつ変わっていて、しかし変わらずおもしろがっている。こんなことに気が付ける遊びは、ほかにないのではないか。ずらりとあらゆる文言が書かれた仰々しい半紙と、それを包み込むようにほのかに香る墨の匂いを感じながら、今までの自分たちと、これからの自分たちとに、それぞれ思いを馳せていた。

今日の給食がカレーであるかどうか

 

「今日の給食はカレー?」


3歳のむすこはカレーが大好きである。

お正月明け初登園の1月6日の朝、彼がまず気にしたのは「今日の給食がカレーであるかどうか」だ。

 

我が家は卓上カレンダーに献立が記入してある。日付や曜日に関心を持ってもらおうと考えた、子煩悩でまめな夫の字だ(拡大推奨)

 

見てみるとなんとカレーは28日だ。だいぶ先である。だいぶ先なので、だいぶ先だと伝えた。

彼の顔はガッカリしている。3歳児に日付の感覚はまだなく、22日後といってもピンとこないだろう。しかたなく「今日の給食はミートローフとポテトサラダだよ」と伝えるが、表情は変わらない。今日の給食はカレーじゃない。彼にとって給食は、カレーとそれ以外なのかもしれない。

 

カレーは28日。

 

給食のカレーはあまりにだいぶ先なので、翌日の夕飯にカレーを作ることにした。1月7日、七草粥なんか糞食らえ的に、カレー。胃への優しさとは相反する食べ物だが、むすこが22日間もカレーを待てるとは思えない。胃には優しくできなくとも子供には優しくありたい。

そんなこんなでカレーを作って保育園から帰宅したむすこは想像以上に大よろこび。「カレー!カレー!」と興奮しながら山盛りのカレーライスを平らげた。これでしっかり彼のカレー欲は満たされただろう。

そのせいか、翌日の朝、彼は「今日の給食はカレー?」と聞かなかった。

 

と、思ったのも束の間、聞かなかったのはその日だけで、次の日の朝は聞いた。目をキラキラさせ、カウンターに置いてある卓上カレンダーを眺めながら「今日の給食はカレー?」と。もしかしてこれ、毎日続くのか。

 


〜給食がカレーの日まで残り19日〜

ノースリーブとサッカー

むすこが突然サッカーをやりたい!と言う。

わたしも夫もサッカーどころかスポーツに無縁な生活を送っているにもかかわらずだ。

しかし思えば我々が住んでいるのは葛飾区、葛飾区といえばキャプテン翼、ボールは友だちという狂おしい世界である。であれば決してサッカーと無縁とはいえない。わたしもノースリーブを着て会社に行ったら日向小次郎に似ていると言われた過去がある。むしろ因縁である。サッカーボールを買う理由はそろっていた。

今日は外で初めてボールを蹴った。
5分くらいで飽きて花を摘んでいたむすこ。「サッカーたのしかったねー」と言いながら帰宅した。本当かよというスピードで飽きていたように見えたが、まあ楽しかったならよかった。
わたしも少しサッカーを勉強せねば。

ステイホームはうれしくて飽きる

この状況下ではまあいろいろな立場があるけれども、わたしにとって今のところステイホームのすばらしさは、家にいられることである。というか「ステイホーム=家にいろ」ということなので、必然的にそれ以外の良さがない。

なんたって家というものは値段が高いので、身を削って働いたお金を注ぎ込んでいる家にいられるということはなんだかとても得している気はする。テレワークの導入によって、空っぽになったオフィスにお金を払うことに疑問を持ち始める企業は多いが、そもそも昼間空っぽだった家にお金を払うことになんの疑問を持たなかったことがおかしいのではないか。コロナ以前にお金払ってるんだから家にいたい。できれば平日もいたい。憲法の27条1項には勤労の義務があるが、それ以前に我々には人権があるので外に出る権利はもちろん、家にいる権利だってあるわけなのである。家にいられるということはハッピーなのだ。家最高。家にいられるのうれしい。でも最高でうれしいが続くとそれはそれで飽きる。というか、飽きた。

いろいろがんばって楽しさや尊さを見出そうとしても飽きてしまうね。別にまったく嫌ではないんですけれど。わたしは4日前くらいに飽きました。家って帰るべき場所なのに、ずっといるってすごいよね。帰るという概念が失われてしまった家。家とは一体なんなのか。壁? 

みんなに会いたいな、ととても思うけれど最近よく聞く「離れていても心はひとつ」ってなんですかね。小学生の標語かと思いました。こうなる前から、我々の心がひとつだったことがありましたかね。なかったんじゃないですかね。少なくともわたしはひとつになった覚えはないですね。

ひとつじゃない心を近くに感じたから、きっとおもしろかった。

こどもを見ながらの仕事は大変だが楽しい日々である。ただし、飽きている。家族でホームセンターに行きたい。ホームセンターを禁欲する日々が来るとは思わなかった。