「枝臭い人」という評価

子供の友達が「こっぱんつくんのママって枝臭い」と言っていたらしい。

枝臭い。つまり、体から枝のにおいがするということだ。

まるで初めての評価である。というかそんなこと言われてる人ほかににいるのだろうか。本人から直接面と向かって枝臭いと言われたわけではなく、又聞きなので、もしかしたらなにかしらの悪意があって枝臭いと言っているのか、もしそうなのだとしたら本人に聞いてみなくてはならないが、そうはいっても実際にマジで私自身が枝臭い可能性もあり、そのあたりの真意を私は問い詰められずにいる。

仮にマジで枝臭かったとしたら、一体なんの枝なのかが大変重要である。私の身の回りの枝臭を推測するにクスノキ臭であればいわゆる樟脳なのでおおよそタンスの防虫剤のにおいであろうし、ヒノキ臭なのであれば確実に風呂つまりバスロマンのにおいであると断言できるが、なんの枝のにおいなのかを問えない限り私は枝臭い以上でも枝臭い以下でもないただの枝臭い人間である。

新たに得た「枝臭い人」という評価を胸に、これからの人生も楽しんでいこうと思います。

これはトイレとゴミ箱の前で撮った写真です。

マルタ・アルゲリッチは北千住で降りる

朝の通勤で乗る電車の車両を変えたら、とある女性と乗り合わせることが多くなった。

白髪混じりのグレイヘアで、髪質は毛が細くやや縮れ気味、横にモハっと広がっており、着ている服はだいたい黒色。それに大柄のロングスカートを履いている。なんというかピアニストのマルタ・アルゲリッチによく似ている。

マルタ・アルゲリッチ – KAJIMOTO

似ていると言っても満員電車で後ろ姿しか見ていないので、顔が似ているかは不明なのだが。

アルゲリッチは今朝も北千住で降りますね

ノイズキャンセリングヘッドホンを手に入れてから移動中はもっぱらクラシックになっていた私にとって、常磐線でマルタ・アルゲリッチの後ろ姿を眺めながらマルタ・アルゲリッチのピアノを聴くというのはなんとも新鮮な味わいがある。同じ車両に何人か同じ味わいを感じている人いるだろうか。

11月の公演行こうかなあ。本人を実物で見るべきである。

細長い日

上司が「いちゃガリガリ」という沖縄の駄菓子を買ってきて食べていたのだが固いが故に咀嚼音がすごく、その後ろで課長がしゃべっている声が何も聞こえなくてあのその轟音の正体は一体なんですかという具合だった。よくよく聞いてみたらとても固い駄菓子で有名らしく(仕事中なぜそんなものを食べているのかという疑問があるが)わしたショップなどでも売られているらしい。

わしたショップオンライン

いちゃガリガリ

その固さの秘密などはここで語るよりきちんと取材しているサイトがあるのでそちらをみていただきたい。個人的には特にうまい感じでもないのだが、脳に振動が走るくらい固くそれがなんというか、けっこうくせになる。

「あ!固い日のう…」となど言いたくなる衝動を抑えよう。

固くて疲れたのでカップラーメンに入れてみたが、いくら待っても固い。1時間くらい浸せば食えるかもしれないが、麺は伸びる。

すっかり気に入ったので自分用に買おうかなとわしたショップオンラインを見ながら帰った。商品399円に対して送料880円か…せめて3袋は買わないとだがそんなに食えるのかこんなに固いのに…とかなんとか思いながら子供を保育園に迎えに行くと唐突に「さっきイモムシを捕まえたから見て」と言う。

昆虫に詳しい子いわく「スズメガ」の幼虫だろうとのこと。へー。

なんだか今日は細長い日でありますね。イモムシはやわらかいですが食べません。

私は丁寧に暮らしている人より丁寧に対しての志は高い

今日の午前中のことだ。慌ただしい急ぎの仕事をひと段落させ、トイレへ行き用を足しさぁて残りの仕事もしっかりやるぞ〜と思いながら手を洗いつつ鏡に目をやったところ、さっきまで噛んでいたクロレッツのガムの塊が服の左ポケットのあたりについていた。

…なぜ。トイレに来る前にティッシュにくるんで捨てたと思っていた、あのガムがなぜここに。なぜ前衛的なモチーフのブローチみたいな顔をして今日の私の胸元を彩っているの。

どことなく私のでかい奥歯の形跡が感じられるさっき噛んでいたガムのブローチは、一瞬良さげにも見えたが、それは自分の非を認めたくない私以外の人からしてみたら明らかに服についたガムでしかない。ああ。もうダメ。人として本当にダメです。包み紙があったら私が包まれたい。

私は大雑把で雑で適当なところが大いにあり社会人生活において支障をきたすくらいなのだけれどとはいえまさか服にさっきまで噛んでいたガムが付いているレベルで雑なのだとは思いもせず、事後結構落ち込んでいる。これはむしろ雑を通り越して単に服にガムが付いている人です。ひどい。世界中の雑な自分に苦しみもがく人々に謝罪して回りたいよ。ごめん、私、がんばって丁寧に生きようと意識しているけど、それでも服にさっき噛んでたガムがついてしまうんよ。ねえ神様なんでなの?

人よりもっと丁寧に生きなくてはならないと常々思う。だから私は、生まれつき丁寧な行いが得意で丁寧な暮らすことが容易な人より、丁寧に対しての志が高いと思う。服にガムはつくけど。ポジティブに生きたい。

丁寧への志が高いので春に向けてチューリップの球根を植える予定がある。人の数倍、丁寧にやらないと咲かないと思っている。まじめに。

キーボードをもらった

夫から使ってないキーボードをもらったので1年半ぶりに投稿をしている。Thinkpad。便利だねー。Twitterもほとんど見なくなったし、これからはこちらで感情をモミモミしようかしらなんて思っているところよ。オホホ。

ところどころパーツが欠けておりそれはそれで魅力的なのよ。オホホ。

ジンギスカンが好きな人と結婚してよかった

ほんとうにそう思うんですよ。だって、けっこう私の周りではラム肉が苦手な人が多くて、ラム肉が苦手って言われると、まあたしかに臭いし、しかたないねーと思うんだけど、でも、食べられないのはもったいないなあと思うわけ。だってだって、あの臭さがうまいじゃないのよ。

なんて、通ぶったことを言っているけれど、わたしがラム肉が好きになったのは、まちがいなく夫のおかげで、夫がジンギスカンが好きだからでございます。

今日の昼食。屋上にて。ウインナーは子供用。

結婚するまで、ジンギスカンに縁がない人生を送ってきた。1度だけ食べたことはあったけれど、それがあまりいい思い出ではなくて。というのも、中学校の修学旅行のお昼にりんどう湖ファミリー牧場でジンギスカンが出されたのだが、ジンギスカンないしラム肉なんて存在すら知らなかった私は初めて食べたもんだから「なんかふつうの肉と違うな。臭い気がするな。なんだろうな」と考えごとをしながら食べていたら、横にいた友達に「ねえなんで肉ばかり食べるの」と、あきらかに意地の悪い顔で言われて、男子も見てたし、まあ多感な時期なので、とても恥ずかしくなって、そこから箸が止まり、それ以来、食べてなかったのである。なんて気の毒な私。思春期の自尊心が「肉ばかりをたくさん食べる」というスティグマに晒されることの残酷さよ。

しかし、思春期から止まっていた私のジンギスカン時計は、北海道出身の夫のおかげで動き出した。彼は大学のときにジンギスカン屋でバイトをしていて、成長期の血や肉をジンギスカンで形成したようなジンギスカン人間なので、彼と結婚することによって、私の日常にも否応なくジンギスカンがやってきた。恥ずかしくて食べることをやめたあのジンギスカンは、あのとき感じたとおり臭く、でも目の前にはあのときと違って「たくさん食べなね」と言う人がいて、言われるままにたくさん食べてみると、その臭さがだんだん癖になってきて、いやもしかしてこれはかなり好きな食べ物なのではないか、と気がついたのである。ジンギスカンが苦手な人と結婚していたら、このなんともいえないやみつき感には気がつけなかっただろう。

だから、ジンギスカンが好きな人と結婚してほんとうによかった。そう思います。

この焼け野原のような状態が一番好き。こんな状態になっても夫婦でいることを誓います。今日は、7回目の結婚記念日だったのでした。

「ガールズトーク書き初め」を久々に開催したらすごく楽しかったというだけの話

ガールズトーク書き初め。それは、女友達同士で集まって、15分おきにアラームを鳴らし、アラームが鳴ったタイミングで、発言していた人が発言したことを毛筆で書く、問題提起型のイベントである。嘘。ただの遊びです。

<書初めのシーズンを過ぎているので全紙がスーパーに売っていなかった。半紙は文字数が多いと大変である。>

この遊びの企画が始まったのは6年前。かつては、書き初めなので年始行事として実施していたのだが、わたしが出産し、まだこどもが小さいなかで年始になかなか時間を作れなくなってしまったこともあり、前回の開催から5年とだいぶ間があいてしまった。だがついこのあいだ、トーク時にマスクを装着しながらではあったが、メンバーも変わらず、ひさしぶりに開催することができたのである。やあ。楽しかったね。

<昨年結婚したマクモ氏の新居にて。新居荒らしである。(写真を撮ってくれたのはマクモ氏の夫。ありがとうございます)>

先の大統領ドナルド・トランプが、自らが発したあらゆる暴言や猥談を「Locker-room talk(ロッカールームトーク)」と言って済ませていたのは記憶に新しい。(まあ済んでいないのですが)まず最初に断っておきたいのは、我々のおしゃべりは、彼または彼らの言うロッカールームトークのような、そんな下品なものではない。もちろんおよそ品行方正と言えるものではないのだが、そこに一切の虚構はなく、極めて現実的で、弱者を貶めるようなこともない。むしろ、内容によっては、自分たちが傷つく。そんなトークだ。まるで翼の折れたエンジェルたちのトーク。みんな跳べないのである。

そしてなにより、このトークは書道という形で、強い表現力を持つ。自らが発言したことを、自ら筆をとって書く、ということの重み。ある種宗教思想的だし、経典を書き写す写経なんかに近い部分がある気がするが、精神統一とはほど遠く、むしろ邪気や邪念的なものを呼び寄せる行為にすら思える。某オンラインサロンでもメンバーを集めてやればいいんじゃないかな。いや、ぜひやってほしい。

<真美ちゃんの「これも丁寧な暮らしに入るんだ」は、名言であった>

ひさしぶりのガールズトーク書き初めは、5年前に開催されたそれより、それぞれが持ち寄る話題が少し変わってきた印象があった。その点では、書道という方法で会話を可視化し、毎年残すという行為はとても指標的であるなと思う。そしてなにより歳を重ねても楽しめる遊びであったことには、とても驚かされた。とにかくただただ楽しい。だんだん筆をとるのがめんどくさくなるのも含めて。

5年前と変わらず集まるわたしたちは、少しずつ変わっていて、しかし変わらずおもしろがっている。こんなことに気が付ける遊びは、ほかにないのではないか。ずらりとあらゆる文言が書かれた仰々しい半紙と、それを包み込むようにほのかに香る墨の匂いを感じながら、今までの自分たちと、これからの自分たちとに、それぞれ思いを馳せていた。

親の足の裏が硬い

 むすこが2才半になり、行動や言動がどんどん子どもらしくなってきた。と同時に「あ、これ私も小さいころ同じことをしていたな」と忘れていた記憶がよみがえることが増えている。
  このあいだ、むすこが私の膝に座って私の足の裏の硬い部分を爪でカリカリしながら「これどうしちゃったの〜?いたいの〜?」と聞いてきた。私はハッとした。私も自分の父親の足の裏の硬い部分を爪でカリカリしながらその硬さに驚き「これどうしたの?」と聞いたことがあった。とても些細でどうでもいい記憶だ。だが確かに私の父親の足の裏も硬かった。それがいつのまにやら、足の裏が硬い側になってしまうとは。時は流れるものである。

 最初に「子どもらしくなってきた」と書いたが、我々が言う子どもらしいって結局は「子どものころの自分や友達がそうだった」の集合知なのだろう。時代は移り変わるので、その物差しだけで子どもらしさを語るのは良し悪しがあるが。その前提があったとして、子どもが「親の足の裏が硬い」と指摘することは、私は大変子どもらしいと感じる。

実際の足の裏の写真は胃もたれするくらい硬かったので絵にした

面ファスナーとロック

「ロックミュージシャンは靴紐なんか結ばねえ」と言っていた友人は、かならず面ファスナーの靴を履いていた。彼はロックに忠誠を誓っていた。だから靴を脱ぐときもベリベリベリ!と音を立てて豪快に脱ぐ。聞けば、屈んで靴紐なんかをモタモタ結ぶのはカッコ悪いからロックじゃない、とのことであった。

その話を聞いた当時は、いやそのベリベリ音のほうがカッコ悪いよ、モタモタするのはお前が不器用なだけだよ、という感情ばかりが湧いたが、今の私はあのベリベリ音がむしろ好き、当時の彼への共感はまったくないが私に関してはここのところ特にこどもの靴が面ファスナーなのである。こどもの靴を、ベリベリと音をたてて脱がせるのがとてもたのしい。あの小さいふわふわしたあんよからベリベリと音がする、ちょっとしたアナーキーさ。アナキー・イン・ザ・ふわふわあんよ。わかる?この気持ち。親バカである。

そういえば成長とともにだんだん面ファスナーとは縁がなくなっていった。やっぱりあのベリベリ音に心地よさを感じなくなったからだろうか。
子供が生まれてから、しばらくご無沙汰だった面ファスナーがついた服などにたくさん再会したが、やはり面ファスナーはいちいち本当にうるさい。毎度剥がすたびに思う。本当にうるせえ。特に抱っこ紐なんかは面ファスナーの面積が広いので寝ている赤子を起こすくらいノイジーである。今はこども自身もどんどん騒がしくなってきたのであまり面ファスナーのうるささが気にならなくなってはきたが、音がうるさいという意味では面ファスナーはたしかにロックなのかもしれない。それでいえばこどももうるさいからロック。あ、もしかして君もそういう意味でロックだったのかい?友よ。

産後は和田アキ子を避けるべきだ

以前、Twitterでこのような投稿をした。

産後10日目のことである。実家に里帰りしていた私は、ふだんまったく見ない「アッコにおまかせ」に映し出される和田アキ子に対して、苛立ちを隠しきれなかった。どのような内容だったのかは忘れたがとにかく和田アキ子の空気の読めなさがどうしても気にくわない、いや気にくわないどころではなく許せないのだ。何を言っているんだお前は。もうちょっと考えてからしゃべれや。ふだんだったら気にとめることすらない和田アキ子の無知ぶりがどうしても許せない。さらに和田アキ子に苛立ちを感じている自分にも腹が立つのだ。わたしが、なぜ、和田アキ子なんかに。悪循環である。産後大量に分泌される、我が子への愛情を深める働きをするはずのオキシトシンが、和田アキ子に対しての攻撃性へと変わってしまう。幸せホルモンと称されるあのオキシトシンがである。これは非常に危険である。ぜひ日本産科婦人科学会でも注意喚起していただきたい。産後は和田アキ子を避けるべきだと。

警鐘を鳴らすのはふぁなた。

 

和田アキ子とオキシトシン

 

モロマンコおばさん

以前、Twitterでこのような投稿をした。

 

 

 

 

モロマンコおばさん。
銭湯の脱衣所にある籐のイスに、裸のまま、パンツもはかずに座るおばさんをそう呼んでいる。少々直接的な呼び方かもしれないが、本人がすでに直接的というかむしろ直接座っておいでですので、わたしはためらうことなくそう呼ぶことにしている。(心の中で)

 

モロマンコおばさん!(心の中で)

 

このモロマンコおばさんは、近所の銭湯に高確率で出現するのだが、つい最近もイスと一体化しているのではないかとさえ思うくらい当たり前に脱衣所にいらしたため、ちょっとまじまじと観察してみた。するとどうやら、彼女たちにはある目的があることに気がついた。
銭湯からあがり、暑さで息の上がった彼女たちは、おそらくかなり血圧が高く、パンツをはくことすらままならない。つまり、パンツをはくより前にいったんイスにモロに座り、乱れた呼吸を整えているのだ。高血圧がゆえのモロマンコ。YES!イス to モロマンコ。なるほどである。

 

まあ銭湯に行くたび出くわすので、今回も直接本人に「なぜ、モロマンコで座るのか」と問うてみたいところではあったが、しかし、そうはいってもなんせ、モロマンコなので、わたしも少々、恥ずかしいところがある。

 

なんとなくロゴも作ってしまった。ごめんなさい。

人肉を買う夢

人肉を買う夢を見た。

もうそれだけでかなり精神状態を疑われてしまいそうなのだが、見てしまったものは仕方がない。夢の中のわたしは、体育座りでぴっちりとパウチされた、かなり濃い顔のおじさんの肉を買ったのだ。

 

こんなやつを買った

 

流れはよくわからないのだけれど、母親と一緒に買いに行っていて、こんな大きいのうまく解体できるかねえ、とか言いながら2人でクルマの助手席に人肉を積み込んだ。

ところが積み終えたところで、こもった声で「イタイヨォ……イタイノヨォ……」と聞こえてくる。

これは間違いなく中に包まれたおじさんの声である。

わたしはビクッとしたが、母は鼻歌まじりに「あ、まだちょっと生きてるねー(笑)」と言いながらクルマを走らせていた。

 

 

この恐ろしい夢の要因は、おそらくその日の晩ご飯が丸鶏の姿揚げだったからだ。つまり、どこかに「生き物をいただく」という思いがあったのだと思う。というかそう納得することにする。させていただく。

それにしても母の「ちょっと生きてるねー(笑)」というセリフはかなりパンチが効いている。相当クレイジーだ。次母に会うときどんな顔をすれば良いのかわからない。母はそんなこと知ったこっちゃないだろうが。