人肉を買う夢

人肉を買う夢を見た。

もうそれだけでかなり精神状態を疑われてしまいそうなのだが、見てしまったものは仕方がない。夢の中のわたしは、体育座りでぴっちりとパウチされた、かなり濃い顔のおじさんの肉を買ったのだ。

 

こんなやつを買った

 

流れはよくわからないのだけれど、母親と一緒に買いに行っていて、こんな大きいのうまく解体できるかねえ、とか言いながら2人でクルマの助手席に人肉を積み込んだ。

ところが積み終えたところで、こもった声で「イタイヨォ……イタイノヨォ……」と聞こえてくる。

これは間違いなく中に包まれたおじさんの声である。

わたしはビクッとしたが、母は鼻歌まじりに「あ、まだちょっと生きてるねー(笑)」と言いながらクルマを走らせていた。

 

 

この恐ろしい夢の要因は、おそらくその日の晩ご飯が丸鶏の姿揚げだったからだ。つまり、どこかに「生き物をいただく」という思いがあったのだと思う。というかそう納得することにする。させていただく。

それにしても母の「ちょっと生きてるねー(笑)」というセリフはかなりパンチが効いている。相当クレイジーだ。次母に会うときどんな顔をすれば良いのかわからない。母はそんなこと知ったこっちゃないだろうが。

ゆるやかな話

体の事情で生活の速度がかなりゆるやかになっている。まず歩くのが遅い。いままで歩いて30分で行けたところに45分くらいかかってしまう。あと支度が遅い。チャキチャキ動くことができないため早めに起きないと遅刻する。晩ごはんを作るのだってそうだ。そんなことがいろいろ積み重なって、気づいたころにはねむたい時間がやってきてしまう。ああ、今日も最低限のことだけやって終わったなあ。そんな毎日である。

しかしこれに少しずつ慣れると、今まで無駄にあたふたと急ぎ過ぎていたのではないかと感じる。以前はあれをやってこれをやってとせかせか急いでこなして、さて空いた時間になにをしようかと考えながら行動していた。それがいまはただ体の都合に合わせてゆるやかに生活しているだけ。従来のように時間に余裕があることがほとんどない。だけれども、必要なことに時間をたっぷりかけて生活することに、特になんの不便も不幸も感じなかった。きっとあたふたと行動していたとき、空いた時間に結局いらんことばかりしていたのかもしれない。

いらんこと、とどのつまり、誰も見ていないうぶ毛の処理に時間をかけたりしなくてもよいのだ。きっと人生というものは。ちょっとミニマリストっぽいことを書いたかな。でもムダ毛は無駄なものなのか。ミニマリストも毛を剃りますか?

パンツ

男のひとと付き合うなら下着はくらいは上下揃えておいたほうがいいよなあと思って買った結構前から履いているパンツに穴が空いた。パンツだけ。セットのブラジャーは無事。ちょっといいパンツだった。上下で9000円くらいだっただろうか。下着に興味がなかった身としては値が張る金額だったのですこし名残惜しい。だが名残惜しんでいる場合ではない。穴の空いたパンツはわたしにひとつの大きな問題を突きつけた。「上下揃った下着のパンツに穴が空いた場合、ブラジャーのほうも一緒に捨てなくてはならないのか」と。これはとても難しい問題だった。よく考えてみよう。両方捨てる以外に、穴の空いたパンツを引き続き履く、という選択肢もある。共倒れなんていやだ。添い遂げてみせる。そんなパンツの声が聞こえてくるような気がする。一方でブラジャーはどうだろう。穴こそ空いていないもののスレや型崩れがひどく、かつてのきらびやかさの面影もない。でも、どこかたくましい。頼りがいがあった。人の年齢でいったら、55歳くらいだろうか。まだまだやれる。ブラジャーとてリタイヤするにはまだ早いと感じているはずだ。だったらパンツだって、まだまだやれる。これしきの傷。そう、これしきの傷なのだ。縫えばいい。縫ってしまえば、すべてが解決するではないか。縦の糸はわたし〜みたいな歌詞の歌があったが、そんなのきれいごとだ。鞭を打つように針を通し、糸を縫いつける。そこに、尊厳死はない。そんなことを考えているうちに下着を捨てるタイミングを見失うんですがみんなが下着を捨てるタイミングを切実に知りたい。

ジャニス・ジョプリンとピンク・フロイドと近所のおばちゃん

唐突なのだがこのあいだ夫に、わたしという人間がいかにジャニス・ジョプリンという歌手に感銘を受けたかを説明したのだけれど(その部分は長くなるので割愛するね)わたしの話を聞くなり夫は

「でもさあ、ジャニス・ジョプリンって、そんなに歌うまくないと思うよ。きっとどこか近所のおばちゃんにMove Overを歌わせても、たぶん同じくらいソウルフルに歌えるはずだよ」

と反論してきたわけ。

なにを言ってるんだ貴様は。
わたしがこんなにジャニスについて熱弁しているのに、なぜ近所のおばちゃんを引きあいに出すのだ。むかつく。ほんと馬鹿にしてる。

 

いや、でもね、たしかにむかついたんだけど、そういえばわたしが高校生のころ、家でピンク・フロイドのアルバム『狂気』のCDを流していたときに「あら、すごい曲ね」と近所のおばちゃんが窓から顔をのぞかせながら家に入ってきたことがあって、それが「虚空のスキャット(The Great Gig In The Sky)」という曲であった。

あの曲はクレア・トリーという女性シンガーが、怒りとも喜びともいえない底知れぬ感情を激しくスキャットし続けるただただ圧倒的なボーカル・ナンバーであるのだが、その近所のおばちゃんが入ってきたのはちょうど前曲の「Time」が終わったタイミングで、たまたま「虚空のスキャット」がかかりはじめたんだけど、おばちゃんは徐々に曲がヒートアップしてきたのを感じ取り、突然、なんらかのスイッチが入った、いやむしろ壊れたかのように、クレア・トリーの声にあわせて、なぜか藪から棒にスキャットし出したのだ。

 

アーア!アーーーア!!アアアアーオウオ!!オウオ!!オウオ(続)

 

おばちゃんのスキャットに、体中の鼓膜が振動した。そして同時に、わたしは耳を疑った。だって、近所のおばちゃんのスキャットを聴くことになるなんて、一体だれが想像するだろうか。
なんせ、その場には「CDを止める」という選択肢は用意されてはいなかった。そう、圧倒されていたのだ。わたしは。目の前にいる、近所のおばちゃんに。すごく、とても地獄的な意味で。

 

 

あの一件以来、わたしは「虚空のスキャット」を聴くと、けっこう真剣に胃が痛くなる。マジだ。だってすごいこわかったもんあの空間。実はああいう状況こそが虚空なんじゃないかと思える。
(ちなみにおばちゃんは、さんざんスキャットしたあとに自分のところの庭で取れたプチトマトを置いて帰っていった。おいしかった。)

で、話をまとめると、ジャニスの歌唱力をとやかくいう以前に、体験談からいって、おばちゃんという生き物はソウルフルな生き物なのである。パワフルとも違う。わたしが見たあれこそ、まさしく魂の生き様だった。(すごく適当なことを言っている)

わたしもああいうソウルフルなおばちゃんになるのであろうか。っていうか、ソウルフルの使い方間違っているような気がするが。まあ、いいか。