親の足の裏が硬い

 むすこが2才半になり、行動や言動がどんどん子どもらしくなってきた。と同時に「あ、これ私も小さいころ同じことをしていたな」と忘れていた記憶がよみがえることが増えている。
  このあいだ、むすこが私の膝に座って私の足の裏の硬い部分を爪でカリカリしながら「これどうしちゃったの〜?いたいの〜?」と聞いてきた。私はハッとした。私も自分の父親の足の裏の硬い部分を爪でカリカリしながらその硬さに驚き「これどうしたの?」と聞いたことがあった。とても些細でどうでもいい記憶だ。だが確かに私の父親の足の裏も硬かった。それがいつのまにやら、足の裏が硬い側になってしまうとは。時は流れるものである。

 最初に「子どもらしくなってきた」と書いたが、我々が言う子どもらしいって結局は「子どものころの自分や友達がそうだった」の集合知なのだろう。時代は移り変わるので、その物差しだけで子どもらしさを語るのは良し悪しがあるが。その前提があったとして、子どもが「親の足の裏が硬い」と指摘することは、私は大変子どもらしいと感じる。

実際の足の裏の写真は胃もたれするくらい硬かったので絵にした

面ファスナーとロック

「ロックミュージシャンは靴紐なんか結ばねえ」と言っていた友人は、かならず面ファスナーの靴を履いていた。彼はロックに忠誠を誓っていた。だから靴を脱ぐときもベリベリベリ!と音を立てて豪快に脱ぐ。聞けば、屈んで靴紐なんかをモタモタ結ぶのはカッコ悪いからロックじゃない、とのことであった。

その話を聞いた当時は、いやそのベリベリ音のほうがカッコ悪いよ、モタモタするのはお前が不器用なだけだよ、という感情ばかりが湧いたが、今の私はあのベリベリ音がむしろ好き、当時の彼への共感はまったくないが私に関してはここのところ特にこどもの靴が面ファスナーなのである。こどもの靴を、ベリベリと音をたてて脱がせるのがとてもたのしい。あの小さいふわふわしたあんよからベリベリと音がする、ちょっとしたアナーキーさ。アナキー・イン・ザ・ふわふわあんよ。わかる?この気持ち。親バカである。

そういえば成長とともにだんだん面ファスナーとは縁がなくなっていった。やっぱりあのベリベリ音に心地よさを感じなくなったからだろうか。
子供が生まれてから、しばらくご無沙汰だった面ファスナーがついた服などにたくさん再会したが、やはり面ファスナーはいちいち本当にうるさい。毎度剥がすたびに思う。本当にうるせえ。特に抱っこ紐なんかは面ファスナーの面積が広いので寝ている赤子を起こすくらいノイジーである。今はこども自身もどんどん騒がしくなってきたのであまり面ファスナーのうるささが気にならなくなってはきたが、音がうるさいという意味では面ファスナーはたしかにロックなのかもしれない。それでいえばこどももうるさいからロック。あ、もしかして君もそういう意味でロックだったのかい?友よ。

いずれおじさんになる

新年あけましておめでとうございます。
今年のお正月は赤ん坊を連れて北海道は室蘭の実家ではじめて年を越しました。

冬の北海道は初めてだったので構えていましたがずいぶんとあたたかいお正月でした。ぽっかぽか。

のんびりと家で夫が産まれたときのアルバムを見るなどして過ごしましたよ。

 

赤ん坊の頃の夫

 

さて、こんなかわいい子もいずれおじさんになるということがわかりました。
私と夫のむすこももうなんていうか血管が詰まりそうなくらいかわいいですが「いずれおじさんになる」ということを念頭に置き成長を見守りたいとおもいます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

産後は和田アキ子を避けるべきだ

以前、Twitterでこのような投稿をした。

産後10日目のことである。実家に里帰りしていた私は、ふだんまったく見ない「アッコにおまかせ」に映し出される和田アキ子に対して、苛立ちを隠しきれなかった。どのような内容だったのかは忘れたがとにかく和田アキ子の空気の読めなさがどうしても気にくわない、いや気にくわないどころではなく許せないのだ。何を言っているんだお前は。もうちょっと考えてからしゃべれや。ふだんだったら気にとめることすらない和田アキ子の無知ぶりがどうしても許せない。さらに和田アキ子に苛立ちを感じている自分にも腹が立つのだ。わたしが、なぜ、和田アキ子なんかに。悪循環である。産後大量に分泌される、我が子への愛情を深める働きをするはずのオキシトシンが、和田アキ子に対しての攻撃性へと変わってしまう。幸せホルモンと称されるあのオキシトシンがである。これは非常に危険である。ぜひ日本産科婦人科学会でも注意喚起していただきたい。産後は和田アキ子を避けるべきだと。

警鐘を鳴らすのはふぁなた。

 

和田アキ子とオキシトシン

 

モロマンコおばさん

以前、Twitterでこのような投稿をした。

 

 

 

 

モロマンコおばさん。
銭湯の脱衣所にある籐のイスに、裸のまま、パンツもはかずに座るおばさんをそう呼んでいる。少々直接的な呼び方かもしれないが、本人がすでに直接的というかむしろ直接座っておいでですので、わたしはためらうことなくそう呼ぶことにしている。(心の中で)

 

モロマンコおばさん!(心の中で)

 

このモロマンコおばさんは、近所の銭湯に高確率で出現するのだが、つい最近もイスと一体化しているのではないかとさえ思うくらい当たり前に脱衣所にいらしたため、ちょっとまじまじと観察してみた。するとどうやら、彼女たちにはある目的があることに気がついた。
銭湯からあがり、暑さで息の上がった彼女たちは、おそらくかなり血圧が高く、パンツをはくことすらままならない。つまり、パンツをはくより前にいったんイスにモロに座り、乱れた呼吸を整えているのだ。高血圧がゆえのモロマンコ。YES!イス to モロマンコ。なるほどである。

 

まあ銭湯に行くたび出くわすので、今回も直接本人に「なぜ、モロマンコで座るのか」と問うてみたいところではあったが、しかし、そうはいってもなんせ、モロマンコなので、わたしも少々、恥ずかしいところがある。

 

なんとなくロゴも作ってしまった。ごめんなさい。

人肉を買う夢

人肉を買う夢を見た。

もうそれだけでかなり精神状態を疑われてしまいそうなのだが、見てしまったものは仕方がない。夢の中のわたしは、体育座りでぴっちりとパウチされた、かなり濃い顔のおじさんの肉を買ったのだ。

 

こんなやつを買った

 

流れはよくわからないのだけれど、母親と一緒に買いに行っていて、こんな大きいのうまく解体できるかねえ、とか言いながら2人でクルマの助手席に人肉を積み込んだ。

ところが積み終えたところで、こもった声で「イタイヨォ……イタイノヨォ……」と聞こえてくる。

これは間違いなく中に包まれたおじさんの声である。

わたしはビクッとしたが、母は鼻歌まじりに「あ、まだちょっと生きてるねー(笑)」と言いながらクルマを走らせていた。

 

 

この恐ろしい夢の要因は、おそらくその日の晩ご飯が丸鶏の姿揚げだったからだ。つまり、どこかに「生き物をいただく」という思いがあったのだと思う。というかそう納得することにする。させていただく。

それにしても母の「ちょっと生きてるねー(笑)」というセリフはかなりパンチが効いている。相当クレイジーだ。次母に会うときどんな顔をすれば良いのかわからない。母はそんなこと知ったこっちゃないだろうが。

にんげんが増えた

SNSなどではすでにお知らせしておりましたが、にんげんがひとり増えました。

とどのつまりおとうさんとおかあさんになった!

お腹の中にいた頃の赤ん坊はCADデータ渡してないのにどんどん人のかたちになっていくし、死ぬほど痛がっているうちにおまたからポーンと出てくるし、乳首からはとめどなく汁があふれてくるし、頼んでないのに汁ぐびぐび吸ってくれるし、妊娠がわかってからというもの、いままで絶対に身に降りかかって来なかったことがずんずんとやってくるので、刺激的といいますか、とにかくエキサイト、とにかくビャビャビャーン!って感じです。いま。
ほんと、なんていうかとても愉快。この愉快さを積極的にお伝えしたいので、友人各位は積極的に遊びにきてください。ビャビャビャーン!

東横インの記事が

読めなくなったとう問い合わせがありましたが、ほんとうですね。ご報告ありがとうございました。っていうか整理した記事全部でした。あはは。

整理しちゃったので東横インの記事はガジェット通信にも寄稿しております。お手数ですがそちらからご覧ください。覗いてくださった方ありがとうございます。

ゆるやかな話

体の事情で生活の速度がかなりゆるやかになっている。まず歩くのが遅い。いままで歩いて30分で行けたところに45分くらいかかってしまう。あと支度が遅い。チャキチャキ動くことができないため早めに起きないと遅刻する。晩ごはんを作るのだってそうだ。そんなことがいろいろ積み重なって、気づいたころにはねむたい時間がやってきてしまう。ああ、今日も最低限のことだけやって終わったなあ。そんな毎日である。

しかしこれに少しずつ慣れると、今まで無駄にあたふたと急ぎ過ぎていたのではないかと感じる。以前はあれをやってこれをやってとせかせか急いでこなして、さて空いた時間になにをしようかと考えながら行動していた。それがいまはただ体の都合に合わせてゆるやかに生活しているだけ。従来のように時間に余裕があることがほとんどない。だけれども、必要なことに時間をたっぷりかけて生活することに、特になんの不便も不幸も感じなかった。きっとあたふたと行動していたとき、空いた時間に結局いらんことばかりしていたのかもしれない。

いらんこと、とどのつまり、誰も見ていないうぶ毛の処理に時間をかけたりしなくてもよいのだ。きっと人生というものは。ちょっとミニマリストっぽいことを書いたかな。でもムダ毛は無駄なものなのか。ミニマリストも毛を剃りますか?

パンツ

男のひとと付き合うなら下着はくらいは上下揃えておいたほうがいいよなあと思って買った結構前から履いているパンツに穴が空いた。パンツだけ。セットのブラジャーは無事。ちょっといいパンツだった。上下で9000円くらいだっただろうか。下着に興味がなかった身としては値が張る金額だったのですこし名残惜しい。だが名残惜しんでいる場合ではない。穴の空いたパンツはわたしにひとつの大きな問題を突きつけた。「上下揃った下着のパンツに穴が空いた場合、ブラジャーのほうも一緒に捨てなくてはならないのか」と。これはとても難しい問題だった。よく考えてみよう。両方捨てる以外に、穴の空いたパンツを引き続き履く、という選択肢もある。共倒れなんていやだ。添い遂げてみせる。そんなパンツの声が聞こえてくるような気がする。一方でブラジャーはどうだろう。穴こそ空いていないもののスレや型崩れがひどく、かつてのきらびやかさの面影もない。でも、どこかたくましい。頼りがいがあった。人の年齢でいったら、55歳くらいだろうか。まだまだやれる。ブラジャーとてリタイヤするにはまだ早いと感じているはずだ。だったらパンツだって、まだまだやれる。これしきの傷。そう、これしきの傷なのだ。縫えばいい。縫ってしまえば、すべてが解決するではないか。縦の糸はわたし〜みたいな歌詞の歌があったが、そんなのきれいごとだ。鞭を打つように針を通し、糸を縫いつける。そこに、尊厳死はない。そんなことを考えているうちに下着を捨てるタイミングを見失うんですがみんなが下着を捨てるタイミングを切実に知りたい。

整理整頓

ホームページ内の記事をいったん整理しました。

この半年で環境や心境に大きな変化があり、あまりくわしくは述べないとしても、とにかく指の毛がまったく生えてこなくなった。なにを言っているのかわからないがほんとうのことだ。指の毛がしっかりと生えるタイプの人間だったわたしにとってこれは正直かなり驚きの変化である。毎朝仕事に向かう電車のなかで、朝日に照らされて神さまみたいにきらきらと光る自分の指毛をながめながら、ああ、生えているな、と思う日々が忽然となくなったわけなのですから、驚くのも無理はない。生えていたものが生えてこなくなるいうのは、たとえ髪の毛でなくともとてもさみしいことなのだと知った。なんていうかそんな心境のなかでの整理整頓となりました。

記事の整理はしたのですが、うっかり両親が置物と化す記事だけ残ってしまい、残ったついでに久しぶりに読んでみたら奇しくも屁みたいに笑ってしまったのでそれはそのままにしています。また整理した記事に関しては、非公開にしていませんのでご懇意いただいている各リンク先からは問題なく飛べると思います。

 

対してツイッターはものすごく頻繁にツイートをしている。嗜好品のように手放せなくなっており、やめられないもの、わたしはアイスとくにガリガリ君を食べることがやめられないのですが、ガリガリ君を食べることと同じくらい必要なこと、今はツイッターがないと生きづらいと思うくらいになっています。そんな大げさなことを言っておりますが内容自体は生活の垂れ流しで、読み返してみるとばか丸出しだし誤字が多いしすこしツイートを制限したい。ツイッター制限。ツイッターダイエット。ツイッターやめたら指寂しくなってきっとポテトチップスとかに指を伸ばしてしまうからからきっと太る。触るならキーボードを触って文章を打つとかしたい。

夫の出張中に羽を伸ばしてみた

(データ整理していたら出てきた2年くらい前の記事です。マイナビウーマンから依頼を受け執筆しましたが、そういえば掲載がされていなかったのですっかり忘れておりました。久々に読んでみたらもったいないくらいには体を張っていたのと、あとお盆も近いので、ブログに掲載して供養いたします)

 

結婚すると感じる、独身時代との違い。それは、決定的に「自分の時間がなくなる」ということだ。
女性の場合、専業主婦であれば自分の時間はまあまあ作れるであろうが、今を生きる「共働き派」の女性は特に、自分の時間を持つことはなかなか難しい。私も結婚して2年になるが、1人暮らしをしていたときに比べると圧倒的に自分の時間が減っている。仕事を終え、買い物をして帰宅し、帰ったらすぐごはんの支度をし、そして支度をしている間に夫が帰ってくる。どうだ、私も振り返ってみるとほとんど自分の自由な時間はないではないか。
夫が見ないSFのDVDをまとめて借りてきてポテチ食べながら鑑賞したり、仕事終わりにザギンでグッピンショ(銀座でショッピング)してみたり、独身時代には当たり前にできていたことが、今となってはやや遠慮してしまうようになった。不思議なものである。

そんなことを考えていたある日、突然夫が「明日から2日間出張になっちゃった」と言い出した。え、マジ? 久々に私、一人になれるの? 夕飯の支度をしないでマクドナルドとか、食べていいの?

■とにかく羽を伸ばしたい
夫が出張でいない。
冷静に考えてみよう。夫が出張でいないということは、妻である私は、その間自由に羽を伸ばすことが許される。先にも述べたが、夕飯にマクドナルドとか吉牛とかを食べることもできるのだ。でも、羽を伸ばすのであれば、せっかくだからおもいっきりやりたい。今回夫が出張するのは土・日の2日間なので、この休みの間にめいっぱい羽を伸ばすとしたら、やっぱりそれは……

1<実家に帰ってきました>

 

これだ。土日に夫がいないとなると、遠出をするのが一番いい。でもあまりお金もかけたくないので(主婦の思考だ)ごはんがおいしい実家に帰るのがベストなのである。実際に羽も身にまとい、まるで、まるで私は自由の象徴だ。私はどこまででも飛んでいける、自由な主婦であり、自由な鳥なのである。

 

2
<じゆう>

 

自由。自由とは、心のままであることだ。他者などの外的束縛がない、まさしく大空を悠々と羽ばたく鳥。
しかし自由とは、人間が生み出した概念だ。きっと鳥たちは、自由という思想自体とらわれない、真の意味での自由な海で、生きる舵を取っているのだろう。つまり私たちが想像している以上に、彼らは、ずっとはるかに自由なのだ。

 

3
<服は「G.U.」ではない>

 

4
<畑にいたおじいちゃんに草むしりを頼まれた>

 

自由、自由と連発しているものの、私は決して夫との結婚生活に嫌気がさしたわけではない。こう見えても新婚で、夫は仕事が忙しくなければごはんの支度もしてくれるし、雨が降ると職場までクルマで迎えに来てくれたりすることもある。私の負担が大きかったことなど、今まで一度もないのである。
だがしかし、それとこれとは話が別だ。羽を伸ばす、ということ。それは、家事の負担を減らしてもらうことでも優しくしてもらうことでもなく、私というひとりの主婦が、自由という名の物語の主人公になるということなのだ。だからもう、誰にも止められない。私の目の前に広がるのは、コスモ。果てのない広い小宇宙だけなのだから。

 

5
<なつかしいなー、竹馬>

 

6
<なぜか飛びそうな体制になった>

 

7
<結構必死である>

 

8
<何をしているのかわからない>

 

ここまでに雄大に、はち切れんばかりに羽を伸ばしてみて、少し気づいたことがある。自由の中にあるものは、いったい何だったのか。私があれほど手にしたかった自由は、主婦である自分からの解放は、果たして私が本当に望んでいたものだったのだろうか。

 

9
<田舎だ>

 

10
<これもちょっと飛びそうである>

 

不思議だ。不思議なことに、とても自分の家に帰りたい。
私という妻は、私の夫とともにあり、夫のためにごはんを作って、一緒に食べて、たまにケンカもして、それでも一緒に、当たり前に暮らす。そんな日々が好きだったのだ。その中に「自分の時間」がないことなど、どうでもいい。私にとって「自分の時間」とは、「夫とともに生きていく時間」なのだ。私はなんてバカだったんだろう。背中の羽を大きく羽ばたかせて、さあ帰ろう。夫が帰ってくる前に、夕飯の支度をして。

 

11
<ごめんね。夫>

12
<いま、会いにいきます。(チャリだけど)>